顧客だって、人間だ。
歌うことに善悪なんてなかったことに今更気づく、って話。
「誰かが作詞作曲したやつ歌う奴ってなんやねん!操り人形かよ!自分というものを歌えやワレ!」と思っていました。
でも、そういうケースもあるのだなあ、ということに最近思い当たりました。
ひとつは、作曲者のイメージを具現化してあげているケース。作曲者みな歌がうまいとは限らないし、それに多くの歌には声のイメージもつきまとうものだろうし。「千の風になって」を、いわゆるアニメ声の人には歌ってほしくないですよね。そういった時は、誰かに頼みたいよなあ…と、自分でも思います。
ひとつは、演じているケース。この歌詞はどんな人物の目線なのかを意識して、その人物になりきる、ってことですね。その可能性を除いてしまったら、「役者」という職業、成り立たないですし、ね。実際、それを楽しんでいる人もいるみたいですし…。(スキマスイッチのVo.の人が「相方の作詞した―自分には全く当てはまらない―歌を、なりきって歌うことが楽しくなってきた」みたいなことを、どこかのインタビューで言っていた気がします。)
後から考えてみると、この2つ、ほぼ同時に起こることのようにも思えてきました。歌ってもらうなら、自分の気持ちを汲み取れる人じゃないと駄目だし、逆に誰かの曲を歌うような人は演じることに長けていないと駄目ですし。
他にもある気がしますが、今回は「視野が広がった」ということだけでも収穫だと思ってます。
またひとつ、大人になった…かもしれません。
分解して考える話。
うわあ・・・8ヶ月ぶりです。
でも、これはこれでいいのかもしれない。自分のペース、ということで。
機械があったら分解したい。
話には聞いたことがあると思います。意味がわかりませんよね。
でも、分解している本人も、ある意味「わからない」から、分解しているんですね。
あれ分解することでどうなるかっていうと、その機械の「しくみ」が分かってくるんですね。「なるほど、この配線がこれに入ってこれが動くのか」といった具合に。僕はしたことないですけど、きっとそう。
そして実際、そういった方たちは、工学系の仕事に就くことが多いです。いや、多い気がします。ソースは全てテレビ番組etc.ですが。
さて、私達の身近にもありますよね。仕組みがわからないまま使っているもの。機械じゃなくて結構です。
「常識」です。
「学生は勉強に励むのが常識だろう」とか、使ってますね。
常識と言うだけで、説明した気になっていないでしょうか?
そこで先程の例の常識を「分解」してみると、「学生である若い年代のうちはとにかく知識を蓄えるべきだ」という説明ができます。しかし、「常識だ」と言うだけでは、決して伝わらないことです。
そのくらい面倒臭がらず、説明してあげてください、と思うのです。
また、ある人の常識という言葉には、そもそも理論がない場合もあります。単なる「多数派」が、そのまま「常識」と流用されているのだろうな、と思います。
この場合も、「分解」することでそれが明らかになります。なにせ、中身がすっからかんなのですから。
「分解」することは、疑うことです。
自分の言っていることの意味がわからなくなったら、まず「分解」してみることをおすすめします。
それを再構成した時には、きっと胸を張って語れる、立派な理論が成り立っていることでしょう。
8ヶ月という期間は、僕の文章構成力に大した変化を与えなかったようです。
ご意見を、是非とも。
仕組まれた遺伝子だった、それでも。
人って単純です。
ご無沙汰しております。
才能という言葉、なんとなく使ってませんか?自分より優れた何かを持った人に対して、とか。ありがちですよね。
才能は存在します。つまらない言葉にすると、遺伝子の問題です。人ができることってのは、だいたい遺伝子で決まっています。
ただし、自分より優れた何かを持った人と才能がある人は、別問題です。
確かに才能は存在しますが、それ以上に、人間やろうと思えばなんでもできるんです。若ければ若いほど。
優れた人を「才能がある」で一括りにするのは愚かです。
今流行りの英才教育なんかがそれです。ピアノが弾ける人が揃って口にするのは、「ピアノは財と時があればだれでも弾けるようになる」という結論です。ただ、習得するスピードや上手い下手に関しては才能が参戦してくるのでは。
しかし、僕は英才教育って何か怖いです。人類史のタブーに近づいてる気がします。物心ついていない子どもが見たまま感じたままの技術のみを習得させられて、数年後に自分の意思を持った時、混乱すると思います。あれ、なんでこんなことやってたんだっけ、と。英才教育で学べるのは、表面的な技術です。真似事です。
…多分。違ったら是非指摘してほしい。
話は戻ります。
優れた人に人生の道のりを訊いてみれば、おそらく、その優れた理由が才能ではなくその道のりに含まれていることに気づくと思います。
才能で一括りにして諦めるのは終わりにしましょう。本当にやりたいことのためなら、貪欲に技術を習得することも、困難を乗り越えることも、苦ではないはずです。
若いって最高です。
あ、お年を召してしまわれた方々、申し訳ありません。この記事は筆者と同い年くらいかそれ以下の人を中心に書いてしまいました。
数年後に年をとって分かった苦悩編も書きたいです。
以上。
「同じドアをくぐれたら」と願う。
手に入れるために、捨てるんだ。
僕はBUMP OF CHICKENのファンです。やっとファン歴2年のひよっこですが、今までのアルバムは全部聞きました。隠し曲も毎回楽しみにしてます。
そんな中、最近よく思い出す曲が「同じドアをくぐれたら」なのです。ユグドラシルいいですよね。
社会人へのカウントダウンが迫り、やるべきことが格段に増えてきたこの時期、求められるのは「取捨選択」です。自分のやりたいこと達に優先順位をつけて、時間が足りなくなった時は優先順位の低いことから切り捨てる。さもなくば何も成し遂げられなくなってしまうからです。
まさに歌詞がこの通りのことを言っているように聞こえます。少なくとも僕は。
例えばこの部分。
もう 気付いたろう 僕に君のドアは見えない
同じドアをくぐれたら―― と願っていたよ
学校で出会った親友や恋人と、未来永劫仲良くやっていきたいわけですよ。でも学校を卒業したら、なかなか会う機会がないわけですよ。人それぞれに夢があって、別々の夢を追う未来があるから。ドアが違えば、未来も違う。同じ未来、同じドアはくぐれないんです。
さぁ 時は来た 繋いだ手を離すんだよ
カラになった手で それぞれの鍵を受け取ろう
手を離さないと鍵は受け取れないんです。未来に進めないんです。
もう 気付いたろう 目の前のドアの鍵を
受け取れるのは 手の中がカラの時だけ
最初は漠然としていた歌詞の意味が分かってきます。
ただ一人だけ
ダメ押しです。もうわかってるから。やめて。
駆け足で説明しましたが、僕にはこんな風に聞こえたという解説(?)でした。
僕の考えと全く違う解釈をする人もいるでしょう。どんな人生だったかによって様々な解釈は生まれます。その多彩な人生の多くに当てはまる歌詞を書けたからこそ、BUMP OF CHICKEN は一躍有名になったのではないでしょうか。
なんとかまとまりました。お疲れ様です。
年のはじめ、ブログのはじめ。
年末年始を感じない。
ブログを始めてみました。
動機の1つは、文字と触れ合う機会を増やしたいということ。選択授業で現代文を取らなくなって長らく日本語と向き合わなかったために日本語力が衰えてきたあたりで、やっと日本語の面白さに気がつく。ブログで文章を書くことによって日本語力を強化したいと思ってます。この表現おかしいだろ!...とかどんどんお申し付けください。
もう1つは、とりあえず自分の意見を発散してみたいということ。気が付くと四六時中考え事をして、頭の中は常に文字で溢れかえっている状態で。どこかに発散する手段として、ブログを選びました。日記ではよくないんです。ぶちまけたいんです。記事へのご意見も期待してます。
肝心の内容については完全に気分。趣味が出るのでは。音楽、ゲーム、あとは世迷言。
更新は毎日更新!…とか言ってましたが無理。不定期です。なるべく多くしたい。
さて、遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
僕は年の瀬というイベントの波というものをあまり感じなくなりました。2011年から今年にかけて年の瀬のイベントの大きさは右肩下がりです。思わず時代のせいにしたくなります。
年の瀬の感じ方は世代別ではないことは、うちの家族全員が年の瀬を感じなくなっていることからもわかります(うちの家族が異常、という考え方は視野に入れてない)。他の方はどうなのでしょうか。
これを時代のせいにするとしたら、お祭り騒ぎをしなくなったことが大きい。もう少し踏み込むなら、お祭り騒ぎが「電子化」されたこと。そう、今流行りの「とりあえずSNSのせい」です(流行っているかどうかは置いておきましょう)。
画面の向こうに見える景色は、別世界だし、どこか遠くの出来事にしか思えません。実際に遠いし。お祭りって羨ましい。面倒なボタン操作なしで、その場でまさにシェアしてるんだもの。五感をフルに使うことで記憶にも残ります。
結論:来年はお祭りがしたい
年末年始をあまり感じないことについて、様々な考え方ほしいです。募集中。
初回からいきなり無茶苦茶なまとめ方をしてしまって面目ない。発散が目的だったからでしょうか。文章のまとめ方もこれから勉強したい。